2011年




ーー−2/1−ーー オルフェ逝く


 
昨年の10月、近所で葬儀があり、出かけた。自宅に戻ると、オルフェの様子がおかしかった。夏ごろからめっきり老け込み、衰えたオルフェだが、その時はいつになくグッタリと伏していた。近づいて呼びかけても動かない。耳を引っ張っても動かない。

 家の中にいた家内を呼んだ。彼女が大きな声で呼んでも、やはり動かない。これはもうご臨終かと思った。家内はオロオロして涙ぐんだ。私は喪服を着ていたので、やけに雰囲気が出た。

 家内が、「食べ物を与えたらどうかしら?」と言った。彼女は家からバナナを持ってきた。それをオルフェの鼻先に持って行った。それでも動かない。と思った瞬間、突然パッと目を開き、目前のバナナにガブッと食いついた。それ以後は、何事も無かったように、いつも通りになった。

 おそらく、三途の川を渡りかけていたのだろう。川の向こうから、「オルフェや、もういいからこちらへ来なさい」と呼ぶ声が有り、バシャバシャと川の途中まで進んだに違いない。その時、後ろから好物のバナナの臭いがしたのだ。彼はサッと身をひるがえし、こちら岸に戻った。そんな想像がピッタリの出来事だった。

 そのオルフェも、ついに昨晩(1月31日の未明)亡くなった。

 昨年11月の時点で、いつ逝ってもおかしくないような衰えぶりだった。ウンチやオシッコは垂れ流しで、その片付けに世話が焼けた。

 今年になってからは、後ろ足が弱くなり、まともに歩けなくなった。下半身を引きずるようにして歩き、つまずいて転ぶようになった。こうなっては四つ足も情けない。感覚も鈍くなった。外来者が来ても吠えない。お隣のライバル犬が通っても、黙っている。何を言っても無反応。それでいて頑固。吹きさらしの寒い場所から動かなかったりした。

 そのような衰え方が、増々加速し、ここ数日は見るも無残だった。もっぱら介抱をしていた家内も、そろそろ本当の終わりが来ることを予感したようだ。昨日の夕方、餌を与えようとしても立てなかった。夜になって、横たわっているオルフェに、家内がバナナを差し出したら、寝たままパクッと食いついた。それが最後の食べ物となった。

 家内の話では、昨晩11時頃私が風呂に入り、いつものように笛を吹いていたら、壁を隔てた軒下で、オルフェは倒れたまま尻尾をパタパタと振っていたという。彼女はそれを窓越しに目撃した。それが、動いているオルフェを見た最後だった。笛の音を聞きながら、冥土へ旅立って行ったのかも知れない。

 朝になって、庭に墓穴を掘った。この土地は、石がゴロゴロ出てきて、とても掘り難い。家内と交代で、1時間以上かかった。穴の中に体を横たえ、ドッグフードやバナナで飾ってやった。それから土をかけ、好きだったフリスビーを置いた。

 私は正直に言って、あの犬を全面的に好きだったわけではない。賢さは抜群で、それまで我が家で飼ったどの犬より利口だった。しかも良くなついていた。リードを外しても逃げることは無く、私の脇にぴったりと付いて歩いた。まるで人の言葉が解るようなそぶりをすることもあった。その反面、腹の中では別の事を考えているような、二面性のようなものが感じられた。そこが好きになれなかった。

 好きになれない面もあった犬だが、飼っていたおよそ10年間を振り返れば、暖かく楽しい思い出に溢れている。ちょうど2年前から始めた番犬日記(ブログ)を読み返しても、日々のたあいもない出来事が、画像と共に現れて、言いようのない懐かしさを感じる。

 外へ出ると、主のいなくなったバスタブ・ハウスが、空しく建っていた。工房の前の定位置に、もう番犬オルフェの姿を見ることはない。





ーーー2/8−−− 名入りタオル


 今年は大竹工房開設20周年にあたる。それを記念して、気軽に配れる品物を準備しようと思った。かねてより関心があった、名入りタオルを作ることにした。

 木工家なのだから、何か木の品物を作るべきだという意見もあるかも知れない。しかし、そういう事は、実行するとなると、いろいろ厄介な面がある。今回はあっさりと、我が国の伝統的な習慣に従ってみた。普通なことをやる方が良い場合もある。

 版下は自分で作った。タオル屋に任せても良かったが、自分でやった方が多少なりとも味が出ると考えた。文字だけでは殺風景なので、アームチェアCatを図案化して取り込んだ。印刷色は、私がベース・カラーと考えているグリーンにした。

 初めての事なので、遠方の業者にメールだけで依頼するのは不安があった。そこで、近場の業者を探し、松本のタオル屋を見つけた。生地のサンプルを見て選び、版下の文字サイズなどを相談するために、会社まで出向いた。

 結構な量を作ったので、それなりの金額になった。どんな出来栄えになるか、気が揉めた。二週間後に届いた品物は、満足が行くものだった。ほっと安堵した。

 さて、タオルが一般的に粗品として使われるのは、理解できる気がする。実用品であるから、貰った人が持て余して困ることは無い。安価な品物だから気兼ねも無い。家庭の中で、洗って干して使い回すから、結構目に付く。消耗品ではあるが、寿命は短くない。そして、名前などを入れるのが簡単で、宣伝の効果はそこそこ有る。我が家でも、何年も前に貰った、材木店の名入りタオルを使っているが、やはり知った名前を目にすると懐かしい。

 タオルという些細な品物だが、自分の意図したものが出来上がるプロセスは、なかなか楽しいものであった。

 早速、出会った人たちに配った。どの人も喜んで受け取ってくれた。ビニール袋から出して、実際に使ってくれるかどうかは分からない。別にそれでも構わない。そう思えるくらいの品物が、文字通りの粗品で、丁度良いのだ。




ーーー2/15−−− アクリル・ケーナ


 私は、南米にルーツがある、ケーナという楽器の演奏を趣味にしている。本格的に習ったことは無く、ほとんど自己流だが、こういう楽器はもともと民族楽器として伝わっているものであり、音楽学校で教わるようなものではないと思う。自分が楽しめればそれで良いという、気楽な気持ちで取り組んでいる。それがもう十年以上になる。

 ケーナは、最初のうちはなかなか音が出ない。出るようになっても、美しく響くようになるまでには、かなりの時間がかかる。音が上手く出ないのは笛のせいだと考え、あるいは自分に合う笛を探す目的で、駆け出しの頃は、次から次へと新しいものを買った。そういう傾向は、私だけでなく、ケーナの愛好家に共通したものだと思う。これが、完成度が高いフルートなどの洋楽器と違って、品質のばらつきが大きい民族楽器の悲しさであり、また面白さでもある。

 何本もの笛を手に入れると、次の段階は改造である。ある程度の演奏技量が身に付くと、楽器の特性もおぼろげながら分かるようになり、改造すれば良くなると考えたりする。一般的には、ケーナの歌口は絶対にいじってはいけないとされている。しかし、人間の手で作っているものだから、出来の良し悪しはあるに違いない。手を入れることで改良されることもあるはずだ。などと考えて、何本かの高価な笛をいじってダメにした。

 そのうちに、自分で作るようになった。四年ほど前に東京の南米楽器店が主催するケーナ製作教室に参加し、やり方を覚えた。それから、二十本ほど作った。

 自分で作ると言うのは、ある意味で理想である。自分が気に入った笛ができるまで、何度でもトライすれば良い。材料費など微々たるものである。専門的な道具も要らない。手間さえ惜しまなければ良い。その手間もたいして掛からない。唯一の問題点は、演奏技量が無ければ、良い笛が出来ないということである。私も、ケーナと付き合い始めてから六年ほど経ってから自作に踏み込んだのだが、そこに至るまでには、演奏技量の進歩が必要だったのだと思う。

 それなりの笛が出来るようになると、自作品ばかり使うようになった。これまでに購入した高額な(と言っても8000円前後だが)ケーナは、束になって楽器立てに放置されている。

 自作の楽器で演奏をする。それは、かなり有頂天にさせるものが有る。演奏だけでも創造的な行為だが、楽器も作るとなると、さらに上を行くような気がして、得意になる。これで作曲でもすれば、完璧だろう。そんな冗談はさておき、楽器を作って奏でる楽しさというものは、確実に存在するように思う。

 素材は大分県から取り寄せた竹を使っている。大分県は竹の産地であるらしい。ボランティア精神の旺盛な方がいて、ケーナの普及のために、竹材を格安で送ってくれる。品質は、出来たケーナがちゃんと鳴るのだから問題無い。

 ところで、世の中には、竹以外の素材でケーナを作る人もいる。例えば塩ビパイプ。水道管などに使われる灰色のパイプである。私もその材料で作ってみようかと思ったこともあったが、色が冴えないのと、管に文字が書いてあるのが気に入らなくて、手を出さなかった。

 最近になって、アクリルパイプで作ってあるものを、ネットで発見した。これはオシャレである。ホームセンターに行ったら、丁度良い直径のアクリルパイプがあった。それを買ってきて、作ってみた。

 アクリルは扱いやすい。竹材は、迂闊に扱うと割れてしまうことがあるが、アクリルならその心配も無い。管の長さが足りないと感じたら、継ぎ足せば良い。専用の接着剤を使えば、接着強度はとても大きい。また、透明なので、裏から透かして見ながら加工できるのも良い。

 出来上がったアクリル・ケーナは、思いの外良く鳴った。味のある音ではないが、クリアーで綺麗な音がする。十分に演奏に使えるモノだと思う。軽くて丈夫だから、アウトドアに持参するのにも適している。竹のケーナは、運搬用の容器(塩ビパイプ製)に入れて持ち運ばないと不安だが、アクリル製なら、歌口をちょっと保護する程度で良いだろう。

 ところで、アクリルパイプで作ることに、一つの意義を見出した。素材が均一なので、加工の再現性が高いのである。ピッチの調整や、歌口の成形などは、試行錯誤でスタートするのだが、再現性があると、次第に法則性が見えてくる。いわば科学実験のようである。竹の場合は、個体差があるから、偶然的な要素が大きいという印象がぬぐえない。アクリルを使って、実験的な製作を繰り返せば、この楽器の特性というようなものが、より詳しく見えてくる気がする。それは、竹で作る場合にも生かされることだろう。

 




ーーー2/22−−− ブログ雑感


 昨年四月に始めた大竹工房のブログは、少しずつアクセスが増えて、一日に100人を数えるくらいになった。このホームページは一日平均50人。ブログの方が多いのは、毎日更新しているからだろう。

 ところで、たまに同業者の人から「あなたのブログは、ずいぶん細かい事まで書いているね」と言われる。半ばあきれ顔である。

 また、「仕事のスナップを一日に何回も撮って貰って、奥さんと仲が良いのですね」と言われたことも有る。仲が良いかどうかは別として、写真は全てセルフタイマーで撮っている。

 自分にとっての記録という意味もあるので、写真はまめに撮り、アップしている。実際に後で見て加工方法を確認するなど、役に立つことも有る。また、作業の姿勢や、工房の散らかり具合など、画像で見て気が付いた事もある。

 毎回同じような画像が出てくるので、飽きてしまう読者もいるだろう。そういう人は遠ざかっていくだろうが、仕方ない。そもそも、木工や家具に興味の無い人が、見るのを止めてしまうのは、当然のこと。逆に、若い女性でも、毎日楽しみに見ているという人もいる。ともあれ、たまには変化を付けるなど、読者への配慮は心がけていくつもりだ。

 頻繁にスナップを撮るのは、作業の妨げになるのではないかと、眉をひそめる向きもあるだろう。しかし、こんなことは慣れてしまえば何でもない。コツを掴めば、時間も取られない。作業の流れに支障を来たすという事も無い。むしろ、作業に一呼吸いれるのに役立つと感じるくらいである。

 木工技術をオープンに見せ過ぎると心配する人もいるようだ。真似をしたい人はすれば良い。誰かの役に立てば幸せというものだ。過去にも、私の作品の真似モノみたいなのを目にしたことがあったが、別に損をするわけでもない。工夫やアイデアで売れ行きを伸ばし、他者に差を付けるなどという世界とは無縁の稼業である。

 行き会った人と、ブログが話題となって、話が弾むことも増えてきた。一人きりで、日々黙然と仕事をしている身には、ほとんど一方通行ではあっても、ブログで発信をする事は、励みになる。








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